真宗大谷派 龍向山 浄光寺
Shinsyu Otani-ha Ryukou-zan Jhokoji Temple
建立以来の丸い欅(ケヤキ)の柱が並ぶ、現代の道場ともいうべき機能的な本堂。ご聴聞に時を忘れ、今あるいのちを感謝して、また明日に向けて鮮やかな一歩を踏み出す。ここは皆様方の縁(えにし)の要となる集いの場でもありますご葬儀、ご法要はもとより、新郎新婦の門出にふさわしい、荘厳なご仏前でのご婚礼にもご利用いただけます。また落語やアート、音楽を通してお寺に親しんでいただけるような催しも開催しております。
堂内はすべて椅子席となっておりますので、正座が苦手の方でも安心してごゆっくりとお参りしていただくことができます。また冷暖房も完備しておりますので年間を通して、快適にお過ごしいただけます。尚、空調設備は金沢21世紀美術館などの空調設計を手掛けた佐藤英治氏による床下式。泉が湧き出るがごとく、清らかな微風が堂内に広がります。自ずと手が合わさる空間づくりを心がけました。
ここが変わっているかも!浄光寺
築約200年を経ている本堂ですが、日々アップデートし続けています。他の寺院ではあまり見られないものをピックアップしてみました。
- 屋根がステンレス
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耐震性を考慮してステンレス製の瓦を採用しています。
- 畳がない
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椅子式に対応するために参詣人席はすべてカーペット敷となっています。約180席のご用意があります。
- 地下室がある
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平成10年(1998年)本堂回収の際、曳家工事をして本堂の地下に「納骨堂・礼拝堂」を新設しました。
- 床からエアコン
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お寺は涼しいは過去の話。近年の猛暑に対応すべく床式空調設備を設置しています。
- 発泡スチロールの塀
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境内の危険なブロック塀を撤去し、安全性の高い発泡スチロール製の塀を採用。
浄光寺が今の地(金沢市森山)に移転してきましたのは、延享3年(1746)当寺第11世受雲(宝暦4没)の時代と聞いております。浄教房圓成を開祖として親鸞聖人の開顕された教えをいただき、ことに蓮如上人の直釋を仰ぎ、浄土の真宗の道を展じてきたところであります。現時点で出処出自は文献資料上で確認することはできないものの、もとは福原(平家が遷都したところ=現在の地名神戸市三宮)の武士の一軍であり、仲間の菩提を葬う必要性から出離の縁をいただいたものとおさえられております。現住職受任は第23世(平成25年~)になります。前の本堂修復の折り日の目を観ることになった、若き(吉崎以前)蓮如上人両軸の名号(九字・十字)はその間の流れを語ってあまりあるものといえましょう。
周知のように石山本願寺が信長により壊滅的打撃を受けた後、秀吉が准如(天正5年1577〜寛永71630)をたて本派本願寺を再興したのに対し、本願寺顕如の長子教如(永禄元年1558〜慶長19年1614)は、家康の後押しで大谷派を興しその教線を拡張していったことであります。まさにその時当寺第6 世呑悦房授英が慶長18年(1613)浄光寺の基を確立していったところであります。そのことは慶長10年(1605)に東本願寺開祖、教如上人の寿像を下付されたことからも窺うことができます。
慶長18年(1618)(6世〕〜享保17年(1732)〔10 世)の間、加賀金澤河北郡茶屋町(東山1丁目13—15付近)に在り、今でも浄光寺跡の松は大切に保存され、散策途中屋根越しに覧ることができます。
以後、度重なる火災と都市整備計画などにより現在地へ転じ、本堂を構えたことでした。しかし移って18年目 宝暦8年(1758)の大火により消失。その84年後すなわち天保12年(1842)、大衆が飢えている中、厳選した木材を多用した立派な七間御堂が落成したものであります。それだけに当時の鶴来屋圓右衛門をはじめご同行のご信心の一端をかいま見る思いがいたします。実に有り難いことであります。長い年月を経て、“真宗のこころ”が浸透した土壌は私たちを広くおおらかなものとして育んできたことです。いいかえれば大変な財産を受け継いだ地に在るといえましょう。また将来へその精神、姿勢は大事に相続されていくべきものなのです。
なお中牧町は藩政期「大衆免浄光寺前町」ともいわれ門前町として、商店が数多く軒を並べて人の往来も盛んであった由聞いておるところです。ひとつこの地域に縁をもったことによろこびをもち先達に恥じない「歩み」をしたいものであります。
親鸞聖人の「親鸞」という名は七高僧(親鸞聖人が大切にされたインド・中国・日本の僧侶)の中で親鸞聖人独自の回向観を形成するにあたり、大きな影響を与えたであろう天親菩薩と曇鸞大師からそれぞれ「親」、「鸞」と一字づつ頂戴して名乗られました。
親鸞聖人はこれまでの回向理解を180度転換し、回向の主体を衆生から如来へと転換させたのです。分かりやすくいうと、自力の念仏から他力の念仏に転換させたということです。私たちはお念仏で救われると聞くとお念仏することによってよりいい人間になって、つまり仏さまのお眼鏡にかなうような者になって救われていくのではないかと思ってしまうのではないでしょうか。努力して今とは違う自分になって、仏さまに近づいていこうとするのが自力の生き方です。また自力の教えは選ばれた人しか救われることがない狭い道でもあります。
比叡山での修行を通して真剣に自分自身と向き合われた聖人は自力の教えでは決して自らの救いとなることはありませんでした。むしろ真剣に向き合えば向き合うほど迷いが深まっていかれたのではないでしょうか。その後、比叡山を降りられた聖人は法然上人のもとでその深い迷いに沈んでいる者こそが仏さまの救いの対象なのだということに気づかされます。私のほうから仏さまに近づいていこうと思っていたら、実は私に先立って仏さまのほうが近づいてくださっていた、ここに回向の主体の転換が起こったのです。
救われる身になって救われていくのではなく、救われない者を救ってくださるのが仏さまだったのです。
仏さまは「迷いの衆生よ、我が名を称えよ」と私たちに呼びかけ続けてくださっています。その呼びかけられている迷いの衆生とは私のことだという頷きを聖人は「愚禿釈親鸞」と表白されたのです。お念仏の教えでしか救われることのない我が身に頷かれていかれたのでした。その「愚禿」という名乗りは、それは自らを卑下しているのではなく、仏さまに言い当てられた自らの姿を「愚禿」といわれるのです。仏さまの智慧によってはじめて私たちは本当の姿を知ることができるのです。
またその呼びかけに応じ呼び返す、その声が南無阿弥陀仏というお念仏なのです。仏さまはあなたがいつか呼び返してくれるはずであると信じ、決して見捨てることなく常に寄り添い、そして待ち続けてくださっています。それが仏さまの慈悲のはたらきです。
仏さまの慈悲と智慧のはたらきが「南無阿弥陀仏」であり、親鸞聖人はお念仏の教えに出遇い、救われていかれたのでありますが、それは決して悩みや苦しみのない人生を送られたということではありません。聖人は、悩みや苦しみを自らを問い直す縁として自らを問い直し、そのことに意味を見出し、また生きていることの喜びと悲しみを仏さまと共に受け止めながら一歩一歩いのちの縁が尽きるまで、群萌と共にそして自らも群萌としてお念仏の道を歩んでいかれたのです。
どうかお念仏の教えに出遇い、確かな世界を拠り所とし、あなたはあなただけの人生を皆と共に生きてくださいと仏さまと親鸞聖人、さらには名もなき無数の念仏者が私たちに呼びかけてくださっています。そして呼びかけを聞く「今」ここから新たなる歩みがはじまっていくのであります。
親鸞聖人のご生涯
親鸞聖人は承安3年(1173)に京都の南、日野の里で誕生されました。父は日野有範〈ひのありのり〉、母は詳しくは分かっていませんが吉光女〈きっこうにょ〉と伝えられています。
治承5年(1181)9歳の春、伯父の範綱〈のりつな〉に伴われ、京都三条白川にある慈円〈じえん〉の坊舎において得度し、範宴〈はんねん〉と名のられました。出家すると比叡山に登り、以後20年にわたって天台宗の学問と修行を中心に修学されました。比叡山は宝亀4年(785)、伝教大師(最澄)によって開かれた仏道修行の根本道場です。聖人は横川の首楞厳院の堂僧として修行に励まれました。堂僧とは常行三昧堂で不断念仏を修する僧のことをいいます。
聖人は20年にわたる修学にもかかわらず、自力聖道門では生死〈しょうじ〉を解決することができず、建仁元年(1201)29歳の時、比叡山を下り聖徳太子の創建された六角堂(頂法寺)に参籠されました。聖人は太子を「和国の教主(日本のお釈迦様)」として尊敬されていましたので、今後の歩むべき道を尋ねられたのです。参籠してから95日目の暁、聖徳太子の夢告をうけました。「廟窟偈」とも「行者宿報偈」ともいわれる夢告に促されて、東山吉水で専修念仏を説かれていた法然上人を訪ね門弟となりました。そのときの様子について『恵信尼文書』〈えしんにもんじょ〉には、六角堂に参籠されたときと同じように、どんな天気であっても、どんな事があっても、ひたすら「生死出づべき道」を求めて通いつづけたと記されています。
法然門下に入った親鸞聖人は、元久2年(1205)4月14日、法然上人の主著である『選択本願念仏集〈せんじゃくほんがんねんぶつしゅう〉(選択集)』の書写と、法然上人の真影を図画することが許されています。 その際に、法然上人はみずから筆をとり「選択本願念仏集」の内題の字に、「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」の字と「釈綽空〈しゃくのしゃっくう〉」という当時の聖人の名を書いて与えられました。同年7月には、法然上人の真影に讃銘と夢告によって改名された善信〈ぜんしん〉の名を書いてもらっています。
承元元年(建永2年・1207)念仏弾圧によって、専修念仏は停止〈ちょうじ〉され、門弟4名が死罪、法然上人、親鸞聖人等の8名が流罪となりました。このとき聖人は越後(現在の新潟県)に流され、非僧非俗の道を歩まれました。妻の恵信尼〈えしんに〉さまは越後の豪族、三善為教〈みよしためのり〉の娘といわれています。
流罪は建暦元年(1211)に解かれていますが、帰洛されることなく建保2年(1214)、妻子とともに常陸(現在の茨城県)に移住され、関東で約20年におよぶ伝道生活をおくられました。62、3歳の頃に帰洛されていますが、その理由は明らかではありません。
帰洛された聖人は、畢生の書である『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』を加筆訂正されたり、『浄土和讃』『高僧和讃』の執筆や門弟の質問に書簡で答えたりされていました。建長初年(1249)頃から、関東の門弟間で念仏理解についての混乱が生じ、その解決をはかるために、聖人は息男の慈信房善鸞〈じしんぼうぜんらん〉を名代として関東へ派遣しました。しかし善鸞は混乱に巻き込まれてしまい、聖人の説くところと違った教えを説いて、いよいよ混乱させることになりました。それを知った聖人は、建長8年(1256)、84歳のとき、善鸞を義絶〈ぎぜつ〉し親子の縁を絶ってしまいました。
聖人の撰述には、前記の書をはじめとして、『浄土文類聚鈔』『愚禿鈔』『入出二門偈』『正像末和讃』『三経往生文類』『尊号真像銘文』『一念多念証文』『唯信鈔文意』などがありますが、その多くは80歳を過ぎてから著されたものです。
弘長2年(1262)11月28日、波乱にとんだ生涯ではありましたが、弟尋有〈じんう〉の坊舎で末娘の覚信尼〈かくしんに〉さまらに見守られながら90歳で往生されました。
Shinsyu Otani-ha Ryukou-zan Jhokoji Temple
Name of Teaching
Jōdo Shinshū “Shin Buddhism”
Founder
Shinran Shōnin(1173-1262)
Head Temple
Shinshū Honbyō “Higashi Hongwanji”
Object of Reverence
Amida Tathāgata “Namu Amida Butsu”
Teaching
The doctrine of Jōdo Shinshū is based on the teaching of Shinran, though its essence is universal. This universal aspect derives from Shakyamuni Buddha, who lived some 2,500 years ago in India, and basically taught a path to self-awakening.According to Buddhism, that “I,” that “self” we think we know is actually nothing but a dream created by ourselves out of our own desires. In order to realize this, the Buddha gave numerous discourses relating to timeless universal truths, which we call the Dharma. Shinran drew his greatest inspiration from The Larger Sutra of Immeasurable Life, which discusses the existence of Amida Buddha and the Pure Land. It was on the basis of this scripture’s message that the Buddhist doctrine took on a new meaning for Shinran as a path to the ultimate liberation for all living beings.
Way of Life
Guided by the teaching of Shinran Shōnin, we shall listen to the compassionate calling of Amida Tathāgata and recite the Nembutsu. While always reflecting on ourselves, amidst our feelings of regret and joy, we shall live expressing our gratitude without depending on petitionary prayer and superstition.
About Jōkōji
Pure Light Temple “Jōkōji (浄光寺)” is one of the historic temples, located in Kanazawa City. It was founded around 1463 by “Jōkyōbō Enjō (浄教房圓成)”. At first, this temple was constructed in Higashi Chaya District “Higashi Chayagai (東茶屋街)”. But later it was moved to its present location in 1746. However, it was ravaged by fire. And later it was rebuilt in 1842. Later, major renovations were undertaken in 1998. The existing building has been used since then. The current chief monk, “Syaku Jyunin (釋受任)” is the 23rd (2013-).
イラストレーターで僧侶の中川学さんとデザイナーの泉屋宏樹さん作のリーフレット。oterart金澤2016の題材にさせていただいた泉鏡花原作「絵本化鳥」のイラストと装丁をそれぞれ担当されたお二人によるとても素敵で贅沢な仕上がりとなっております。重ね方で新緑や紅葉に変化したり三角柱に立てることができたりと楽しい仕掛けが散りばめられています。恥ずかしながら住職の似顔絵も(^-^; 本堂に置いてますので、是非手にとってお楽しみください。英語版も有。
■中川学
イラストレーター。家業は浄土宗西山禅林寺派の僧侶。
05年、ドイツの美術出版社TASCHEN発行の、今世界で注目すべきイラストレーターを紹介した本「ILLUSTRATION NOW!」に選ばれ掲載される。また07年以来ロンドン発の雑誌monocleの挿絵、表紙絵を手掛けるなど、京都から世界へと活躍の場を広げている。関西を中心に活躍する挿絵師集団<七人の筆侍>の一匹。「世界いちばん貧しい大統領のスピーチ」のイラストを担当
■泉屋宏樹
iD.(アイディー)デザイン事務所代表。
デザイン企画・制作 / 版画家
1974年大阪生まれ。大阪芸術大学デザイン学科卒。
東京のデザイン事務所にて企画営業職を担当後、カナダ・トロントで2年間活動。帰国後、デザイン学校講師を経て独立。近年では泉鏡花作、中川学絵による繪草子『龍潭譚』、泉鏡花文学賞制定40周年記念プロジェクトとして制作された『絵本化鳥』の装幀を担当。また第47回造本装幀コンクールで『絵本化鳥』が読書推進運動協議会賞、Design For Asia Award2013(DFAA)で繪草子『龍潭譚』が銅賞、『絵本化鳥』がメリット賞を受賞。