
浄光寺について

真宗大谷派 龍向山 浄光寺
本尊 | 阿弥陀如来 |
正依の経典 | 仏説無量寿経(大経)・仏説観無量寿経(観経)・仏説阿弥陀経(小経) |
宗祖 | 親鸞聖人 |
宗祖の著書 | 顕浄土真実教行証文類(教行信証) |
宗派名 | 真宗大谷派 |
本山 | 真宗本廟(東本願寺) |
ここにであう

親鸞聖人が伝えてくださった本願念仏のみ教えに出遇う処、浄光寺。それは同時に本当の自分に出遇う場でもあります。何を悲しみとして、何を喜びとして生きるのか。ここからはじまる真の歩みを今ともに。
ここに集う









建立以来の丸い欅(ケヤキ)の柱が並ぶ、現代の道場ともいうべき機能的な洋式の本堂。ご聴聞に時を忘れ、今あるいのちを感謝して、また明日に向けて鮮やかな一歩を踏み出す。
ここは皆様方の縁(えにし)の要となる集いの場でもありますご葬儀、ご法要はもとより、新郎新婦の門出にふさわしい、荘厳なご仏前でのご婚礼にもご利用いただけます。
また落語やアート、音楽を通してお寺に親しんでいただけるような催しも開催しております。
堂内はすべて椅子席となっておりますので、正座が苦手の方、座ることが難しい方でも安心してごゆっくりとお参りしていただくことができます。
また冷暖房も完備しておりますので年間を通して、快適にお過ごしいただけます。尚、空調設備は金沢21世紀美術館などの空調設計を手掛けた佐藤英治氏による床下式。泉が湧き出るがごとく、清らかな微風が堂内に広がります。自ずと手が合わさる空間づくりを心がけました。
ここに安らぐ

詳しくはこちら




境内の大銀杏に集まる小鳥たちのように、老いも若きも幼きも皆が身を寄せ、生きる拠り所となるような場所でありたい・・・

周知のように石山本願寺が信長により壊滅的打撃を受けた後、秀吉が准如(天正5年1577〜寛永71630)をたて本派本願寺を再興したのに対し、本願寺顕如の長子教如(永禄元年1558〜慶長19年1614)は、家康の後押しで大谷派を興しその教線を拡張していったことであります。まさにその時当寺第6 世呑悦房授英が慶長18年(1613)浄光寺の基を確立していったところであります。そのことは慶長10年(1605)に東本願寺開祖、教如上人の寿像を下付されたことからも窺うことができます。
慶長18年(1618)(6世〕〜享保17年(1732)〔10 世)の間、加賀金澤河北郡茶屋町(東山1丁目13—15付近)に在り、今でも浄光寺跡の松は大切に保存され、散策途中屋根越しに覧ることができます。

なお中牧町は藩政期「大衆免浄光寺前町」ともいわれ門前町として、商店が数多く軒を並べて人の往来も盛んであった由聞いておるところです。ひとつこの地域に縁をもったことによろこびをもち先達に恥じない「歩み」をしたいものであります。
親鸞聖人の教え
親鸞聖人の「親鸞」という名は七高僧(親鸞聖人が大切にされたインド・中国・日本の僧侶)の中で親鸞聖人独自の回向観を形成するにあたり、大きな影響を与えたであろう天親菩薩と曇鸞大師からそれぞれ「親」、「鸞」と一字づつ頂戴して名乗られました。
親鸞聖人はこれまでの回向理解を180度転換し、回向の主体を衆生から如来へと転換させたのです。分かりやすくいうと、自力の念仏から他力の念仏に転換させたということです。私たちはお念仏で救われると聞くとお念仏することによってよりいい人間になって、つまり仏さまのお眼鏡にかなうような者になって救われていくのではないかと思ってしまうのではないでしょうか。努力して今とは違う自分になって、仏さまに近づいていこうとするのが自力の生き方です。また自力の教えは選ばれた人しか救われることがない狭い道でもあります。
比叡山での修行を通して真剣に自分自身と向き合われた聖人は自力の教えでは決して自らの救いとなることはありませんでした。むしろ真剣に向き合えば向き合うほど迷いが深まっていかれたのではないでしょうか。その後、比叡山を降りられた聖人は法然上人のもとでその深い迷いに沈んでいる者こそが仏さまの救いの対象なのだということに気づかされます。私のほうから仏さまに近づいていこうと思っていたら、実は私に先立って仏さまのほうが近づいてくださっていた、ここに回向の主体の転換が起こったのです。
救われる身になって救われていくのではなく、救われない者を救ってくださるのが仏さまだったのです。
仏さまは「迷いの衆生よ、我が名を称えよ」と私たちに呼びかけ続けてくださっています。その呼びかけられている迷いの衆生とは私のことだという頷きを聖人は「愚禿釈親鸞」と表白されたのです。お念仏の教えでしか救われることのない我が身に頷かれていかれたのでした。その「愚禿」という名乗りは、それは自らを卑下しているのではなく、仏さまに言い当てられた自らの姿を「愚禿」といわれるのです。仏さまの智慧によってはじめて私たちは本当の姿を知ることができるのです。
またその呼びかけに応じ呼び返す、その声が南無阿弥陀仏というお念仏なのです。仏さまはあなたがいつか呼び返してくれるはずであると信じ、決して見捨てることなく常に寄り添い、そして待ち続けてくださっています。それが仏さまの慈悲のはたらきです。
仏さまの慈悲と智慧のはたらきが「南無阿弥陀仏」であり、親鸞聖人はお念仏の教えに出遇い、救われていかれたのでありますが、それは決して悩みや苦しみのない人生を送られたということではありません。聖人は、悩みや苦しみを自らを問い直す縁として自らを問い直し、そのことに意味を見出し、また生きていることの喜びと悲しみを仏さまと共に受け止めながら一歩一歩いのちの縁が尽きるまで、群萌と共にそして自らも群萌としてお念仏の道を歩んでいかれたのです。
どうかお念仏の教えに出遇い、確かな世界を拠り所とし、あなたはあなただけの人生を皆と共に生きてくださいと仏さまと親鸞聖人、さらには名もなき無数の念仏者が私たちに呼びかけてくださっています。そして呼びかけを聞く「今」ここから新たなる歩みがはじまっていくのであります。
親鸞聖人のご生涯

治承5年(1181)9歳の春、伯父の範綱〈のりつな〉に伴われ、京都三条白川にある慈円〈じえん〉の坊舎において得度し、範宴〈はんねん〉と名のられました。出家すると比叡山に登り、以後20年にわたって天台宗の学問と修行を中心に修学されました。比叡山は宝亀4年(785)、伝教大師(最澄)によって開かれた仏道修行の根本道場です。聖人は横川の首楞厳院の堂僧として修行に励まれました。堂僧とは常行三昧堂で不断念仏を修する僧のことをいいます。
聖人は20年にわたる修学にもかかわらず、自力聖道門では生死〈しょうじ〉を解決することができず、建仁元年(1201)29歳の時、比叡山を下り聖徳太子の創建された六角堂(頂法寺)に参籠されました。聖人は太子を「和国の教主(日本のお釈迦様)」として尊敬されていましたので、今後の歩むべき道を尋ねられたのです。参籠してから95日目の暁、聖徳太子の夢告をうけました。「廟窟偈」とも「行者宿報偈」ともいわれる夢告に促されて、東山吉水で専修念仏を説かれていた法然上人を訪ね門弟となりました。そのときの様子について『恵信尼文書』〈えしんにもんじょ〉には、六角堂に参籠されたときと同じように、どんな天気であっても、どんな事があっても、ひたすら「生死出づべき道」を求めて通いつづけたと記されています。
法然門下に入った親鸞聖人は、元久2年(1205)4月14日、法然上人の主著である『選択本願念仏集〈せんじゃくほんがんねんぶつしゅう〉(選択集)』の書写と、法然上人の真影を図画することが許されています。 その際に、法然上人はみずから筆をとり「選択本願念仏集」の内題の字に、「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」の字と「釈綽空〈しゃくのしゃっくう〉」という当時の聖人の名を書いて与えられました。同年7月には、法然上人の真影に讃銘と夢告によって改名された善信〈ぜんしん〉の名を書いてもらっています。
承元元年(建永2年・1207)念仏弾圧によって、専修念仏は停止〈ちょうじ〉され、門弟4名が死罪、法然上人、親鸞聖人等の8名が流罪となりました。このとき聖人は越後(現在の新潟県)に流され、非僧非俗の道を歩まれました。妻の恵信尼〈えしんに〉さまは越後の豪族、三善為教〈みよしためのり〉の娘といわれています。
流罪は建暦元年(1211)に解かれていますが、帰洛されることなく建保2年(1214)、妻子とともに常陸(現在の茨城県)に移住され、関東で約20年におよぶ伝道生活をおくられました。62、3歳の頃に帰洛されていますが、その理由は明らかではありません。
帰洛された聖人は、畢生の書である『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』を加筆訂正されたり、『浄土和讃』『高僧和讃』の執筆や門弟の質問に書簡で答えたりされていました。建長初年(1249)頃から、関東の門弟間で念仏理解についての混乱が生じ、その解決をはかるために、聖人は息男の慈信房善鸞〈じしんぼうぜんらん〉を名代として関東へ派遣しました。しかし善鸞は混乱に巻き込まれてしまい、聖人の説くところと違った教えを説いて、いよいよ混乱させることになりました。それを知った聖人は、建長8年(1256)、84歳のとき、善鸞を義絶〈ぎぜつ〉し親子の縁を絶ってしまいました。
聖人の撰述には、前記の書をはじめとして、『浄土文類聚鈔』『愚禿鈔』『入出二門偈』『正像末和讃』『三経往生文類』『尊号真像銘文』『一念多念証文』『唯信鈔文意』などがありますが、その多くは80歳を過ぎてから著されたものです。
弘長2年(1262)11月28日、波乱にとんだ生涯ではありましたが、弟尋有〈じんう〉の坊舎で末娘の覚信尼〈かくしんに〉さまらに見守られながら90歳で往生されました。
真宗大谷派 龍向山 浄光寺
本尊 | 阿弥陀如来 |
正依の経典 | 仏説無量寿経(大経)・仏説観無量寿経(観経)・仏説阿弥陀経(小経) |
宗祖 | 親鸞聖人 |
宗祖の著書 | 顕浄土真実教行証文類(教行信証) |
宗派名 | 真宗大谷派 |
本山 | 真宗本廟(東本願寺) |
ここにであう

親鸞聖人が伝えてくださった本願念仏のみ教えに出遇う処、浄光寺。それは同時に本当の自分に出遇う場でもあります。何を悲しみとして、何を喜びとして生きるのか。ここからはじまる真の歩みを今ともに。
ここに集う








建立以来の丸い欅(ケヤキ)の柱が並ぶ、現代の道場ともいうべき機能的な洋式の本堂。ご聴聞に時を忘れ、今あるいのちを感謝して、また明日に向けて鮮やかな一歩を踏み出す。
ここは皆様方の縁(えにし)の要となる集いの場でもありますご葬儀、ご法要はもとより、新郎新婦の門出にふさわしい、荘厳なご仏前でのご婚礼にもご利用いただけます。
また落語やアート、音楽を通してお寺に親しんでいただけるような催しも開催しております。
堂内はすべて椅子席となっておりますので、正座が苦手の方、座ることが難しい方でも安心してごゆっくりとお参りしていただくことができます。
また冷暖房も完備しておりますので年間を通して、快適にお過ごしいただけます。尚、空調設備は金沢21世紀美術館などの空調設計を手掛けた佐藤英治氏による床下式。泉が湧き出るがごとく、清らかな微風が堂内に広がります。自ずと手が合わさる空間づくりを心がけました。
ここに安らぐ

詳しくはこちら




境内の大銀杏に集まる小鳥たちのように、老いも若きも幼きも皆が身を寄せ、生きる拠り所となるような場所でありたい・・・

周知のように石山本願寺が信長により壊滅的打撃を受けた後、秀吉が准如(天正5年1577〜寛永71630)をたて本派本願寺を再興したのに対し、本願寺顕如の長子教如(永禄元年1558〜慶長19年1614)は、家康の後押しで大谷派を興しその教線を拡張していったことであります。まさにその時当寺第6 世呑悦房授英が慶長18年(1613)浄光寺の基を確立していったところであります。そのことは慶長10年(1605)に東本願寺開祖、教如上人の寿像を下付されたことからも窺うことができます。
慶長18年(1618)(6世〕〜享保17年(1732)〔10 世)の間、加賀金澤河北郡茶屋町(東山1丁目13—15付近)に在り、今でも浄光寺跡の松は大切に保存され、散策途中屋根越しに覧ることができます。

なお中牧町は藩政期「大衆免浄光寺前町」ともいわれ門前町として、商店が数多く軒を並べて人の往来も盛んであった由聞いておるところです。ひとつこの地域に縁をもったことによろこびをもち先達に恥じない「歩み」をしたいものであります。
親鸞聖人の教え
親鸞聖人の「親鸞」という名は七高僧(親鸞聖人が大切にされたインド・中国・日本の僧侶)の中で親鸞聖人独自の回向観を形成するにあたり、大きな影響を与えたであろう天親菩薩と曇鸞大師からそれぞれ「親」、「鸞」と一字づつ頂戴して名乗られました。
親鸞聖人はこれまでの回向理解を180度転換し、回向の主体を衆生から如来へと転換させたのです。分かりやすくいうと、自力の念仏から他力の念仏に転換させたということです。私たちはお念仏で救われると聞くとお念仏することによってよりいい人間になって、つまり仏さまのお眼鏡にかなうような者になって救われていくのではないかと思ってしまうのではないでしょうか。努力して今とは違う自分になって、仏さまに近づいていこうとするのが自力の生き方です。また自力の教えは選ばれた人しか救われることがない狭い道でもあります。
比叡山での修行を通して真剣に自分自身と向き合われた聖人は自力の教えでは決して自らの救いとなることはありませんでした。むしろ真剣に向き合えば向き合うほど迷いが深まっていかれたのではないでしょうか。その後、比叡山を降りられた聖人は法然上人のもとでその深い迷いに沈んでいる者こそが仏さまの救いの対象なのだということに気づかされます。私のほうから仏さまに近づいていこうと思っていたら、実は私に先立って仏さまのほうが近づいてくださっていた、ここに回向の主体の転換が起こったのです。
救われる身になって救われていくのではなく、救われない者を救ってくださるのが仏さまだったのです。
仏さまは「迷いの衆生よ、我が名を称えよ」と私たちに呼びかけ続けてくださっています。その呼びかけられている迷いの衆生とは私のことだという頷きを聖人は「愚禿釈親鸞」と表白されたのです。お念仏の教えでしか救われることのない我が身に頷かれていかれたのでした。その「愚禿」という名乗りは、それは自らを卑下しているのではなく、仏さまに言い当てられた自らの姿を「愚禿」といわれるのです。仏さまの智慧によってはじめて私たちは本当の姿を知ることができるのです。
またその呼びかけに応じ呼び返す、その声が南無阿弥陀仏というお念仏なのです。仏さまはあなたがいつか呼び返してくれるはずであると信じ、決して見捨てることなく常に寄り添い、そして待ち続けてくださっています。それが仏さまの慈悲のはたらきです。
仏さまの慈悲と智慧のはたらきが「南無阿弥陀仏」であり、親鸞聖人はお念仏の教えに出遇い、救われていかれたのでありますが、それは決して悩みや苦しみのない人生を送られたということではありません。聖人は、悩みや苦しみを自らを問い直す縁として自らを問い直し、そのことに意味を見出し、また生きていることの喜びと悲しみを仏さまと共に受け止めながら一歩一歩いのちの縁が尽きるまで、群萌と共にそして自らも群萌としてお念仏の道を歩んでいかれたのです。
どうかお念仏の教えに出遇い、確かな世界を拠り所とし、あなたはあなただけの人生を皆と共に生きてくださいと仏さまと親鸞聖人、さらには名もなき無数の念仏者が私たちに呼びかけてくださっています。そして呼びかけを聞く「今」ここから新たなる歩みがはじまっていくのであります。
親鸞聖人のご生涯

治承5年(1181)9歳の春、伯父の範綱〈のりつな〉に伴われ、京都三条白川にある慈円〈じえん〉の坊舎において得度し、範宴〈はんねん〉と名のられました。出家すると比叡山に登り、以後20年にわたって天台宗の学問と修行を中心に修学されました。比叡山は宝亀4年(785)、伝教大師(最澄)によって開かれた仏道修行の根本道場です。聖人は横川の首楞厳院の堂僧として修行に励まれました。堂僧とは常行三昧堂で不断念仏を修する僧のことをいいます。
聖人は20年にわたる修学にもかかわらず、自力聖道門では生死〈しょうじ〉を解決することができず、建仁元年(1201)29歳の時、比叡山を下り聖徳太子の創建された六角堂(頂法寺)に参籠されました。聖人は太子を「和国の教主(日本のお釈迦様)」として尊敬されていましたので、今後の歩むべき道を尋ねられたのです。参籠してから95日目の暁、聖徳太子の夢告をうけました。「廟窟偈」とも「行者宿報偈」ともいわれる夢告に促されて、東山吉水で専修念仏を説かれていた法然上人を訪ね門弟となりました。そのときの様子について『恵信尼文書』〈えしんにもんじょ〉には、六角堂に参籠されたときと同じように、どんな天気であっても、どんな事があっても、ひたすら「生死出づべき道」を求めて通いつづけたと記されています。
法然門下に入った親鸞聖人は、元久2年(1205)4月14日、法然上人の主著である『選択本願念仏集〈せんじゃくほんがんねんぶつしゅう〉(選択集)』の書写と、法然上人の真影を図画することが許されています。 その際に、法然上人はみずから筆をとり「選択本願念仏集」の内題の字に、「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」の字と「釈綽空〈しゃくのしゃっくう〉」という当時の聖人の名を書いて与えられました。同年7月には、法然上人の真影に讃銘と夢告によって改名された善信〈ぜんしん〉の名を書いてもらっています。
承元元年(建永2年・1207)念仏弾圧によって、専修念仏は停止〈ちょうじ〉され、門弟4名が死罪、法然上人、親鸞聖人等の8名が流罪となりました。このとき聖人は越後(現在の新潟県)に流され、非僧非俗の道を歩まれました。妻の恵信尼〈えしんに〉さまは越後の豪族、三善為教〈みよしためのり〉の娘といわれています。
流罪は建暦元年(1211)に解かれていますが、帰洛されることなく建保2年(1214)、妻子とともに常陸(現在の茨城県)に移住され、関東で約20年におよぶ伝道生活をおくられました。62、3歳の頃に帰洛されていますが、その理由は明らかではありません。
帰洛された聖人は、畢生の書である『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』を加筆訂正されたり、『浄土和讃』『高僧和讃』の執筆や門弟の質問に書簡で答えたりされていました。建長初年(1249)頃から、関東の門弟間で念仏理解についての混乱が生じ、その解決をはかるために、聖人は息男の慈信房善鸞〈じしんぼうぜんらん〉を名代として関東へ派遣しました。しかし善鸞は混乱に巻き込まれてしまい、聖人の説くところと違った教えを説いて、いよいよ混乱させることになりました。それを知った聖人は、建長8年(1256)、84歳のとき、善鸞を義絶〈ぎぜつ〉し親子の縁を絶ってしまいました。
聖人の撰述には、前記の書をはじめとして、『浄土文類聚鈔』『愚禿鈔』『入出二門偈』『正像末和讃』『三経往生文類』『尊号真像銘文』『一念多念証文』『唯信鈔文意』などがありますが、その多くは80歳を過ぎてから著されたものです。
弘長2年(1262)11月28日、波乱にとんだ生涯ではありましたが、弟尋有〈じんう〉の坊舎で末娘の覚信尼〈かくしんに〉さまらに見守られながら90歳で往生されました。

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